占い、とひとことでいっても、いろいろあります。
雑誌によく掲載されている「今月の星占い」もそのひとつでしょう。
カードリーディング、というのも最近よく見聞きします。
手相もそうですし、九星気学も。
女性だと、「星占い」が好きな方は多いかも知れません。
彼とデートが約束ある日なら、雑誌の占いにある「キーアイテム」や「ラッキーカラー」を見て、服装や持ち物に加えてみたり。
「今日のラッキー星座」なんてあれば、なんとなく最後まで見たくなったり……
「今週の運勢」で「こうするといいよ」などと書かれていたら、自分の予定と照らし合わせて、「この日は大事な会議だから、このアドバイスは気を付けておこう」と意識するかもしれません。
天気予報のように、占いの言葉を活かせるならいいのですが……なかにはどっぷりと浸ってしまう方もいるようです。
あるとき、秀逸だなぁ、と思う、「占い」を表現する言葉に出会いました。
占いは当たる。
占いは裏切る。
占いは大事なときには使ってはいけない。
今からもう5~6年前だったかと思います。
日本のビジネスに「フロー」という概念を広められた方が、ある方との対談でお話されていたものです。
最近、「占われる」よりも、「占いをする人」をよく見かけるようになったこともあるからでしょうか……
「占い」について少し考えてみたくなりました。
占い、ってなんだろう?
「うらない」ってなんだろう? と思ったときにひとつ出てきたものがあります。
それは「見えないものを見えるようにするツール」だということでした。
たとえばホロスコープ。
ホロスコープは、生まれた年月日場所時間から、その人が持つ性質を知るときに役立ちます。
「ホロスコープ」から「その人が持つ性質を知ることができる」ということが、経験上、腑に落ちてから、私は「ホロスコープ」を分析ツールとして使います。
ちまたにある「自己分析ツール」と同じようなものです。
ホロスコープも、「ツール」でしかないわけです。
火を使うことと同じで、あぶない、といえば、あぶない。でも、役に立つ、といえば役に立つ。
「あぶない」と思うのは、占う側によって、あるいは、占われる側によって、占いを「どう使うのか?」が委ねられてしまうからです。
占いというツールから出された結果は「ひとつ」でも、誰がどのように解釈するのか? によって、さまざまに意味なすことができます。
その人の想い入れや思い込みに影響を受ける可能性が大いにあるものです。
依存させようと思えば簡単にさせられます
反発しようと思えばいかようにも反発できます
活かそうと思えばいくらでも活かすことができます
どのように占いを使うかは、それを使う者しだい。
占い、についてもう少し考えてみた
占いは当たる。
占いは裏切る。
占いは大事なときには使ってはいけない。
このあたりも含めて、「占い」についてもう少し考えてみました。
占い、が「行動」を妨げてしまう
自分にとって「ここぞ」という大事なことは、自分のものです。
自分のものの責任は全て自分にあるのですから、自分で決めて行動するもの。
そのような場面で、占いを使って頼るということは、自分の責任を「占い」に移してしまうようなものです。
自分の責任を「占い」に移してしまったその人の心が、「本来するべき行動」を妨げてしまう……そんな表現がいいかもしれません。
占い、によって、なぜ本来するべき行動が妨げられてしまうのか?
でもなぜ、本来するべき行動が占いによって妨げられてしまうのでしょうか?
それは、占いにその人の気持ちが現れてしまうから、です。
人は「見たいように物事を見、聞きたいように聞く」ものです。
そこに思い入れが強くなればなるほど、「思い込み」という枠は狭まります。
するとどうなるのか?
大局を見ることができなくなってしまいます。
大局を見ることができなくなってしまうと、なにがどのようになっていても、「自分の見たいもの」だけしか見えなくなり、「聞きたいこと」だけしか聞こえなくなってしまうでしょう。
そして「占い」は「見えないものを見えるようにするツール」です。
ですから「占い」は、その人の見えない心を映し出してしまいます。
占い、を大事なときに頼るとどうなるのか?
では自分にとって「ここぞ」という大事なときには占いを使い頼るとどうなるのか?
考えているよりシンプルです。
自分の心が映し出された結果をもとに行動する。
行動したら「そうなった」
傲慢な気持ちが映し出された占いのとおり行動をすれば、傲慢な結果になり
依存の気持ちが映し出された占いのとおり行動をすれば、依存な結果になり
本来取るべき責任を回避したい気持ちが映し出された占いのとおり行動をすれば、本来取るべき責任が戻ってくる結果にしかならない
たとえ、自分にとって「ここぞ」という大事なときには占いを使い頼ったところで、あるべきところに落ち着くという、とてもシンプルなことです。
占い、は裏切る。というのはなぜ?
たとえ、自分にとって「ここぞ」という大事なときには占いを使い頼ったところで、あるべきところに落ち着きます。
ただし……
占いに「ここぞ」という自分の責任を移してしまった分だけ責任転換が始まります。
つまり、「そうなった」が自分にとって「ワルイ」だったとき「うらぎり」という表現になるわけです。
だから、占いは裏切ります。
ちなみに、占いが当たるは、「見えないもの」が見えるようになるから、です。
まるで真っ暗闇の中で懐中電灯をあてるようなものです。
何も見えないところにあてられる光によって、そこにあったものに焦点が合うことで照らし出される、そんなイメージです。
ただし、照らさなければ真っ暗で、なにも「ない」のと同じこと。
しかも、「ない」ならば、照らし出されるものもありません。
だから、占いでは「当たる」という表現が使われるのかもしれませんね。
占いはあたるのか? まとめ
結局のところ、占いをどう使うのか? は、その人の気持ちしだい、だということです。
占いに依存したければ依存すればいいし
占いを活かしたければ活かせばいいし
その人の気持ちを変えることは、「占い」であっても、できないことなのですから。
ただここでお伝えしたかったのは……
そんな「占い」だからこそ
誰かに占ってもらうにしても、自分で占うにしても、俯瞰できる術を持っておいた方がいい
ということです。
自己同一化させた思考を「占い」というツールに最大限投影させないために。
仙人?! ではない限り……主観との葛藤ですから、俯瞰は常に自己鍛錬です。
占いはあたっちゃうから……こそ、俯瞰する鍛錬は、使う側のマナーなのかも知れません。
ところで……
なんで「占いがあたるの?」あるいは「占いが見えないものを見えるようにするツール」だ、といえるの??
すみません。正直、今のわたしには、その理由や根拠を正確に示すことはできません。
占星術の研究家が研究をしています。
ですが、それが「正しい」か「正しくない」かも、わかりません。
私にとってそれは、たとえば、「1」という数字がなぜ「1」になったのか? を説明するに等しいことだからです。
それが、「そうだ」と思えば、そうなのだろうし、「そうではない」と思えば、そうではない。
だから……なかなかに大変です。
抽象的なものは、得てして漠然としていて突き詰めたいものかもしれません。
「なぜ?」によって具体的にすることで、「科学」というものが生まれたのだとしたら、その恩恵にあずかっている私たちにとって「なぜ?」を追求していくことは、意味深いものですから。
けれども、「1」という数字がなぜ「1」になったのか? を追求していくだけの気力と体力がないならば……そこそこで辞めた方が、もっと楽しいことに時間が費やせます。
あ、もちろん私は……これからも追求していきますよー。
コメント